机に置かれたときは山を成していた炒め野菜も、食事の終盤あたりになるとすっかり姿を消して、汁に浮かんでいるのは、野菜の山にもたれるように盛り付けられていた叉焼だ。

前に友だちから、拉麺を食べる時叉焼を最後までひらひら泳がせているのは何故かと訊かれ、てっきりみんながそうしていると思っていたから、返答に困ったことがある。こんな花形をどうしておいしいうちに食べないのか不思議で、もともとお肉よりお魚が好きなことはわかっているから残すのかなと思い、食べないならちょうだいと丼の中へ自分の箸を入れようとした直前に、さぁっとわたしの箸が叉焼をさらい口の中に消えたので大変驚いたと教えてくれた。
その後も何度か一緒に食べる機会があり、こっそり観察していると毎度決まりごとのように同じようにしているので、これは何か特別な理由があるのだろうと質問に至ったそうだ。
なるほどね。
何もこれは、拉麺だけに限った話ではない。お弁当や普段の食事の時もそうだし、複数の作業を抱えた時の進め方、何なら文章の書き方もそうかもしれない。それらひとつひとつに叉焼があり、これが口に入ったら、終わり!のようなことを頭に送っているんではないかと思う。一番好きなもの、或いは一番大きいものは最後にゆっくりと。

ただし、大切にしすぎるあまりに、貴重なお土産の賞味期限が冷蔵庫の中で切れることが頻発した。それ以来長過ぎる春を繰りかえさないように、なるべく当日中においしく頂くようにしている。ちょっと極端ではあるが。